打楽器の伝統的なストレッチについて考える。

患者さんにプロの打楽器演奏者の方がいらっしゃいまして、その方から先日こんな質問をされました。

打楽器のプレイヤーが伝統的にウォームアップで行っているストレッチがあるんだけれど、最近そのストレッチは手首に負担がかかるからやらない方が良いという意見が増えてんですよ。

実際のとこ手首に悪いのかな?


で、問題のストレッチはこんなやつ。
2:08くらいからのやつです。


このストレッチは初めて見ましたが、検索してみたら打楽器奏者の間ではほんとにメジャーみたいですね。動画も多数上がってました。

で、このストレッチ。確かに手首周りが苦しそうに見えます。
このストレッチについて考えていきたいと思います。

このストレッチの目的を考える。

まずこのストレッチ、スティックを使うことで可動域をある程度制限して、”腕の形と位置”を基準としたストレッチです。
多少痛くてもこの形にしなさいっていう。
こういうタイプのストレッチは往々にして強制的にでも可動範囲を拡げることを目的としている場合が多いです。

どこを伸ばすストレッチなのか?


このストレッチは、手首の先の動きは手のひらを上に向けている状態(回外位)から、手のひらを下に向けた状態のもっと先(過回内位)まで持っていく動きです。
なので伸ばす目的の筋肉は”手のひらを上に向ける動き”を作る筋肉になります。

ここらへんちょっと解りづらいと思いますが、前腕の筋肉が手首の動きにどう関わるのか、ぜひ共有したいので表にしてみます。

手のひらを手首を
手の甲側の筋肉
(前腕伸筋群)
上に向ける
(回外)
甲の方へ倒す
(伸展)
手のひら側の筋肉
(前腕屈筋群)
下に向ける
(回内)
手のひらの方へ倒す
(屈曲)

前腕の伸筋群と屈筋群は、このように正反対の動きを作る筋肉です。
この場合、片方の筋肉が縮む方向に動いたとき、もう片方の筋肉は伸ばされている状態になります。

上記を踏まえてまとめます。このストレッチは、

  • 強制的に前腕を過回内させることで
  • 手のひらを上に向けたり手首を甲の方に倒す作用のある前腕伸筋群を伸ばす

そんなストレッチです。

どう手首に悪そうなのか考える。

TFCC損傷のリスク

ぱっと見た感じ問題になりそうなのは、手首を小指側に倒したままひねる動作が気になります。
この動きはTFCC損傷(手首の小指側にある軟骨的なやつの損傷)のリスクになり得る動きです。とはいえ、ウォームアップで数回行うくらいで即損傷!とはならないので、もともと手首が痛い人はやらない方が良いね、くらいの認識で良いかと思います。

手首は360°ひねれない


手首の関節だけでは360°稼げません。
動画を見た感じ、手首だけではなく肩や肩甲骨まで動かして360°のひねりを作っているのが分かるかと思います。
ここらへんの関節がどれくらい動くものなのか、日本整形外科学会の定める参考可動範囲を基準にして検証してみたいと思います。
この関節はだいたいこのくらい動くよっていう目安みたいなものですね。
記載の無かった関節は適当な文献から拾いました。

まず手首をひねる可動域ですが、親指を上に向けた状態から外側と内側にそれぞれ90°動きます。
このストレッチは親指が外側を向いた回外位から始まるので、親指がぐるっと内側に向くまでで180°
次に肩。腕を前に90°挙げた状態を肩関節の3rdポジションというのですが、このポジションでの肩関節内旋が57.03±15.5°らしいのでざっくり60°としておきます。
そして肩甲骨の上方回旋、肩をすくめる動きが60°

これで合計300°です。無理なく動かせるのがこのくらいだとしたら、残り60°分を筋肉のストレッチで賄う、と考えれば妥当なとこかもしれません。


ただ、ここで示した可動範囲ってあくまで参考値です。正常値ではなく。

関節可動域は年齢,性,肢位,個体による変動が大きいので,正常値は定めず参考可動域 として記載した.関節可動域の異常を判定する場合は,健側上下肢の関節可動域参考可動域,(附)関節可動域の参考値一覧表,年齢,性,測定肢位,測定方法などを十分考慮して判定する必要がある.

関節可動域表示ならびに測定法

関節の可動域なんて色々な条件によって、人によって全然違うものだから何度が正常かなんて決められないよね、と。

このストレッチに関しても、いい感じに効いてくれる人もいれば関節にストレスがかかりすぎてしまう人も、もしくはこの程度ではぜんぜんストレッチされない人だってきっといます。

どうやら、一概にこのストレッチは良いとか悪いとは言えなさそうです。

まとめます。

  • もともと手首が痛い人はやらない方が良いかもしれない。
  • 標準的な関節可動域の人には効くストレッチかもしれないけど、
  • 標準の幅が広すぎてあなたに効くかどうかは何とも言えない

エビデンスに基づいて考える。

では次に、医療者の目線から見てみたいと思います。
このストレッチはどんな性質のストレッチで、どのくらい効果がありそうなのか、いま分かっていることに基づいて評価してみましょう。

前提として

ストレッチには大きく分けて2種類あって、それぞれ目的が違います。
目的の1つ目は関節の可動範囲の拡大、2つ目は筋肉の反応速度の向上です。

関節の可動範囲の拡大を狙う場合は筋肉を十分に伸ばしてその位置で静止、呼吸は止めないようにする、静的なストレッチをします。これはケガを予防したいときに採用されることが多いです。

筋肉の反応速度を上げたい場合は反動をつけて伸ばす動的なストレッチを行います。筋肉は”急激に伸ばされると反射的に縮もうとする”脊髄反射が起こるのですが、瞬間的にすぱっと伸ばすことで反射に関わる神経を刺激して、これを運動に積極的に取り入れることが狙いです。

このストレッチの性質

で、これはどちらかといえば静的なストレッチです。目的は可動範囲の拡大ということになります。が。
静的なストレッチは、使用すると筋肉の出力が下がってしまうことが分かっています。力が入り難くなってしまうんですね。
他のウォームップと平行して行えば悪い影響はある程度抑えられますが、楽器の演奏のような繊細な動きが求められる場合、静的なストレッチはかなり慎重に行う必要があると思います。
以前詳しく書きましたのでご興味あればご一読ください。

一般的に楽器の演奏のような精密さや正確さ、動きの柔らかさが求められる動作の場合、動的なストレッチが推奨されます。
動きが柔らかいということは関節の運動のスピードや強弱を筋肉がしっかり制御できているということです。
可動範囲どうこうより神経と筋肉の連動を強化する動的なストレッチの方が適しているかと思います。

どうしても可動範囲を拡げたいのなら


それは本番前のウォームアップでやることではありません。
日常的にストレッチをして必要な可動範囲を確保しておくべきですし、本番の直前にそれをしなければいけないとしたらそれはコンディショニングの失敗です。

このストレッチの性能

このストレッチは効率があまり良くないです。
前述のとおり前腕の筋肉は手首をひねる動きと倒す動きに働くので、ストレッチも両方の動きを入れた方が伸びます。

例えば左前腕の伸筋群を伸ばしてみましょう。手の甲側の筋肉です。

左腕をまっすぐ伸ばして、親指を時計回りに動かします。
限界まで回すと前腕のどこかに伸びている感が出ると思いますが、そこから手首をくいっと手のひら側に倒すと、より伸びている感が増すかと思います。
このように伸ばしたい筋肉が作用を複数持っているなら複合的にストレッチをかけた方が効率良く伸ばせます。

ここまでのまとめ。

  • このストレッチは関節の可動域を拡げるタイプ。
  • でもあまり筋肉を伸ばす効率は良くない
  • 筋肉の出力が下がるので、
  • 本番直前のウォームアップとして使うのは結構シビア
  • 可動域拡げたいなら普段からストレッチしましょう
  • ウォームアップとしてやるなら動的なストレッチの方が良いかもしれない。

結局このストレッチは良いの?悪いの?


医学的、解剖学的にはこのストレッチはあまり優秀ではありません。
身体にストレスをかける可能性がそこそこあって、もしかしたら筋肉の出力を下げる可能性もある。
もっと効率良く伸ばせる方法もあるし、単純に筋肉や関節に対しての影響を考えると他の方法を選んだ方が良い理由が多いです。

それでも、このストレッチをして調子良く叩けるのならば、やった方が良いと思います。

このストレッチの良いところは演奏で使うものを使って手軽に行えるところです。
例えばステージの袖で出番を待っている時に手遊び的にストレッチをして緊張をほぐす、とかスティックを手に慣らすためにやる、などの使い方には最適かもしれません。
手首と肩と肩甲骨を一緒に動かすので関節運動の連動に役立っているかもしれないし、
これ、演奏前のルーティンなんだよね、とかこのスジにちょっとピリッとくる感じが緊張が解けていい感じに叩けんだよ、という方もいるかもしれません。

コンディショニングという点では効率の良くないストレッチですが、普段の練習の成果を遺憾なく発揮できて、お客さんに喜んでもらうためにこれが必要ならやらない理由がありません

このストレッチが良いのか悪いのか。
それはストレッチの性質を理解した上で、これを選択したかどうかによると思います。

最後に。

良いとも悪いとも言い切れず、何だか中途半端な結論になってしまいましたが、これは本当に白か黒か断言できるようなことでは無くて。


楽器の演奏は単純に筋力が強いから、関節の可動域が広いから良い演奏ができるというものではありません。


どういう状態が良い演奏ができる状態なのかは本当に人それぞれだと思いますが、自身の体調やメンタル、練習量などを含め良き状態でステージに上がられれば最高ですし、もしもそのお手伝いが出来るのならとても幸いに思います。

関節可動域表示ならびに測定法. 日本整形外科学会・日本リハリテーション医学会,リハビリテーション医学 32, 207-217, 1995.
1st・2nd・3rd ポジションにおける他動的肩関節回旋可動域の比較. 清水 大介,成田 祟矢,齋藤 俊,坂本 孝太,古谷 佳大. 第 50 回日本理学療法学術大会(東京)